(11/1、第40回例会、中左近家の古い写真。「熊取の歴史」より)

 写真は11/1熊取例会のとき探訪した「中左近家」のかなり古い写真です。昔は今の国道170号(旧外環、みずまみち)ではなく、更に西の「慈照寺さん」の前の道から裏の佐野川までが中家の屋敷だったとか。慈照寺の丘が砦で佐野川が堀の役目だったのでしょうか。そういえば上瓦屋新川家の竹藪(顕如隠れ井戸)の裏も佐野川でした。


 当日は、中左近家の後に「慈照寺」さんと「本堂左の地蔵堂」を見学しました。当日の様子はこちらから。熊取町発行「熊取の歴史」によれば1888年(明治21年)の「寺院明細帳」には、「創立年月不詳、明暦年間中左近森行堂宇造営シ、盛行法名慈照院ト称ス故、慈照寺ト称シ、盛行中興開山ナリ」と記されているとか。つまり慈照寺は中左近家の菩提寺で、以前は本堂の裏に中家歴代の墓所もあったとのことです。(現在は五門墓地に移転)


 寺の山門は大修理されてきれいになっていますが、もとは佐野の市場付近にあった檀波羅蜜寺のものを移築したとか。檀波羅蜜寺は「日根野村絵図」にも記される中世有力寺院でした。


(日根野村絵図(拡大)の檀波羅蜜寺)

 当日は有名な地蔵菩薩を鑑賞したく、お寺さんにお願いしましたら、閉まっていた地蔵堂をわざわざ開けてくださいました。また、時間が押していたため慈照寺さんの門前で昼食休憩をとらせていただき、そのとき参加者全員で両中家の歴史を少し学習しました(参考はこちらから)。とりわけ、近世後期から近代はじめにかけての中左近家の歴史を中瑞雲斉という人物にスポットを当てて学びました。

(中瑞雲斉、盛茂、右近、左近、幼名建次郎、高彦、墨水、根来家出身で文化十一年(六歳)中家養子、明治四年十二月三日卒、瑞雲院鐵蓊了心居士)

中瑞雲斉(1809〜1871)の墓。「中瑞雲斎関係書簡集」から

 この人は、近世初期に中左近家から別れた幕府旗本根来家((中)根来盛重、根来大納言坊)の子孫で、根来伊予守の四男に生まれ、六歳の時に昔の本家にあたる中左近家に養子に入った人物です。中(降井)盛彬(1781〜1858)と同じく岸和田藩の七人庄屋を務めたのですが、目前の農村の疲弊や時代の危機を鋭く感じとり、それに抗った人物でした。


 以前の記事(2025/10/17)で、吉田松陰が師の森田節斎とともに嘉永六年(1853年)に中左近家に滞在したことを書きましたが、このとき松蔭は瑞雲斉から清国の太平天国の乱の情報を聞いたとされています。(つづく)


(12/20追加①)
 洪秀全が南京を占領して「天京(てんけい)」と改称し、太平天国の首都としたのが1853年3月、松蔭が瑞雲斉と初対面したのが嘉永六年(1853年)三月三日ですから、瑞雲斉は驚愕の情報収集力を持っていたことになります。

(余談ですが、幕末の在野の人々の情報収集は所謂、『風説留(ふうせつどめ)』として近年、研究が盛んになっています。井田寿邦先生(泉佐野の歴史と今を知る会)の遺作となった「山本家文書、幕末の情報収集①〜⑨(未完)」は、御本人が意識されていたかどうかは別として、明らかに泉州における風説留の実態研究となるものです。風説留はここからも。


(12/20追加②)
 さて話は瑞雲斉に戻りますが、瑞雲斉の生家の根来家は、もとは根来寺の子院である成真院の院主(僧)で「根来大納言坊」を名乗った後、徳川家康に仕え幕府天領代官となった根来(中)盛重を祖とする幕府直参旗本家です。旗本根来家の知行地は大和国宇智郡に9ヶ村1250石、近江国蒲生・野洲・愛知郡8ヶ村2200石、計3450石で、近江国蒲生郡東老蘇村には現在でも陣屋跡が保存されています。陣屋跡はここから。


(根来家知行所在地一覧・熊取町史より)

 一般的に江戸後期の大名・旗本家は、多くの借財をかかえていたことが知られていますが、根来家も例にもれず、借財に対する対応として熊取の中家に所謂、「知行所預かり」を依頼することになります。(「知行所」とは将軍から大名・旗本に俸禄として与えられた土地(領地)のこと。「預かり」とは何らかの理由で本来の領主がその土地を統治できなくなった場合に、別の組織や人物が管理・支配を委託されること。)
 中左近家における根来家の知行所預かりは、三次に渡って行われましたが、根来家の財政状況は依然として好転せず、結局三回目の知行所預かりは嘉永5年に終わりを遂げました。


(12/20追加③)
 瑞雲斉は知行所預かりや藩内での役割を果たすなか、嘉永年間(1848〜53年)には南部藩士の鉱山学者であった大島高任という人物を熊取に招聘して大砲(小砲?)を鋳造しました。

(「熊取の歴史」より)

 どこで鋳造したかははっきりしないのですが、現在の熊取町中央小学校の東に「タタリ」(たたら)、校庭内には「ロノ後」(炉の跡)という地名が残っており、あるいはここで鋳造されたのかも知れないそうです。(「熊取の歴史」から)
 瑞雲斉はこれを根来家の領地である大和国宇智郡丹原村の祥禅寺の境内で試射まで行ったそうです。幕末の西洋式大砲はこちらから。

(12/20追加④)
 さて、今回のタイトルとした「草莽崛起(そうもうくっき)」とは、松蔭が門下生の入江杉蔵に宛てた手紙の中に出てくる言葉です。
 「草莽」とは草深い野山に住む、官に仕えない在野の人々を意味します。幕府の統治能力が低下する中、「草莽崛起の人を望む外頼なし((武士、農民、商人などの身分を問わず)在野の人々が立ち上がる以外に頼るものはない)」と説いたのです。
 一方、瑞雲斉は、根来家の知行所預かりからの退転以降、平田派国学に急速に傾倒していったようです。(平田篤胤の思想は、天皇を尊ぶ尊王攘夷運動の精神的支柱となり、倒幕運動を後押ししました。)
 嘉永六年(1853年)に吉田松陰が中左近家に滞在、瑞雲斉と対面してから以後の所謂、「幕末の動き」を整理してみました。


1853(嘉永6)、6月ペリー(黒船)来航、7月プチャーチン来航
1854(嘉永7)、3月日米和親条約締結、将軍跡継問題
1856(安政3)、7月ハリス着任
1857(安政4)、10月ハリス通商条約要求、堀田正睦勅許を得られず
1858(安政5)、6月勅許待たず日米修好通商条約締結、9月安政の大獄(〜59年)
1859(安政6)、10月橋本左内斬首、吉田松蔭斬首留魂禄を残す
1860(万延元)、1月遣米使節出発、3月桜田門外の変、井伊直弼暗殺 
1861(文久元)、10月公武合体公武合体和宮降嫁
1862(文久2)、1月坂下門外の変、5月島津久光江戸城へ、8月生麦事件
1863(文久3)、2月足利三代木造晒首事件、5月長州藩外国船砲撃、7月薩英戦争、月八月十八日の政変、天誅組の変10月生野の変
1864(元治元)、6月池田屋事件、7月禁門の変、長州征伐(〜12月)、月四国艦隊下関砲撃
1865(慶応元)、4長州再征発令、10月条約勅許
1866(慶応2)、1月薩長同盟、月改税約書調印、長州再征(〜8月)
1867(慶応3)、5月兵庫開港勅許、ええじゃないか10月大政奉還、倒幕の密勅、12月王政復古の大号令
(つづく)

(12/21追加)

 瑞雲斉が政治活動を行った時期を確認できるのは、前段で記した嘉永年間における大砲鋳造と発射実験の頃からですが、この当時の中左近家の家政等に関する事柄にふれてみたいと思います。(参考:「中瑞雲斎関係書簡集」熊取町教委。)
 当時の中左近家に残る書状の差出人や宛名の中には、「中川家」と「八藤家」の二家があって、この二家が家政全般を取り仕切っていたらしいのです。中左近家は持高400石で百人にも及ぶ家来と内衆がいて、当主一人で「家」全般の経営ができるはずがなく武家なら家老、商家なら番頭的な家が二家あったらしいのです。


 この二家は岸和田藩に対しての御用を務める際の代人としての役目もありました。藩に出向いての御用を務める際、一般的な御用の際は他の庄屋とは違って、代人を出頭させてよいという許可を得ていたようです。
 瑞雲斉は元治元年(1864)に京都に居を移しますが、熊取の谷支配と家政についてこの二家宛てにしばしば手紙を出しており、とりわけ送金に関するものが多かったようです。

(12/22追加①)
 瑞雲斉は元治元年(1864)に京都に居を移したのですが、その前年には公武合体派のクーデターがおこって朝議一変、尊王攘夷派が失脚した七卿落ちがありました。
 その翌年(元治元年(1864))には蛤御門の変がおこっていますが、このような動乱期に「京都」に向かったのです。まさにタイトルに書いた中瑞雲斎立つです。


 また、文久3年(1863)、2月に足利三代木造晒首事件が起こっていますが、この事件の犯人の一人である中島錫胤と瑞雲斎は交友関係があったらしく、瑞雲斎にも嫌疑がかかりましたが関係していなかったようです。また、同8月には天誅組の変が起こりましたが、この乱の際にも瑞雲斎は支援を要請されたといわれますが、直接関わってはいないようです。(大和五條は根来家の領地に近接しており、当然何らかの関わりが想像できます。)
 最初に京に居を移した際は、妻三鶴(のち恵美)、三男鼎(謙一郎)、四男健(建)、次女ユリ、三女みほを同行したようで、熊取には長男莞爾、次男克己を置いたようです。


(12/22追加②)
 さて、瑞雲斎は上京直後に、崇徳天皇の神霊遷還を朝廷に建白して彼なりの運動を展開しました。彼の政治運動を理解するうえで崇徳天皇(上皇)のたどった運命を理解することがまず必要です。(それはこちらから。
 崇徳天皇は父の鳥羽天皇から「叔父子」と呼ばれ、実子と見なされなかったといわれます。兄弟の近衛天皇の死後は同母弟の後白河天皇と対立し、保元の乱に敗れて讃岐国に流され、非業の死を遂げました。保元の乱は武家が大きな力を持ち、後の武家政権到来のきっかけとなった出来事です。その後、崇徳天皇は日本最大の怨霊となったといわれています。(日本最大の怨霊、崇徳天皇はこちらから。)


 瑞雲斎の政治思想は、平田派国学の影響を大きく受けています。その特徴は天皇崇拝と攘夷思想です。天皇親政のみが日本の本来の政治のあり方であり、日本の幸福につながると信じたのです。その意味で、天皇親政が行われなくなった時が日本の不幸の始まりで、武家の台頭が朝廷の衰微に繋がったと考えたのです。

 そして、保元の乱の結果として崇徳天皇が流罪にされ、流罪地の讃岐で都を慕いこの世を怨み、怨霊となると言いながら死亡したとの伝承に基づき、怨霊化した霊が当時の徳川幕府の苦境を生み出しているのであり、朝廷にとってこれは皇威回復の好機であるとして、崇徳天皇の鎮魂のための神霊遷還を建白したのです。
(つづく)


(12/22追加③)


(瀬戸内海の讃岐、高松の沖に浮かぶ「直島」)

 京都に居を移す一年前の文久3年(1863)に、瑞雲斎は長男莞爾と藤原春根(国学者で貝塚卜伴家に寄寓)の三人で、崇徳天皇の旧跡を訪ねる「讃岐への旅」に出発します。この旅に使った船が、折からの逆風にあって高松沖の「直島」に偶然?漂着したらしいのです。ここで崇徳天皇の子孫伝承をもつ「三宅」家と出会うこととなります。


 遷還運動は孝明天皇に受け入れられて、四国坂出の白峰山陵から神霊を京都に遷還、明治元年(1868)9月に白峰神宮(官幣大社)(当時は官幣中社)が創建されました。これにより、瑞雲斎は「御用掛」となり、三宅家は神官として登用され子孫は禰宜となったそうです。


(白峰神宮)

(つづく)


(12/23追加)
 瑞雲斎は建白書などで、神の意志の統治の反映としての祭政一致、天皇親政、軍事統帥権の天皇への集中をあげています。瑞雲斎にとっては、このような国家の樹立を援助することにこそ、自己の存在意義があったのでした。(「熊取の歴史」から)

 1867(慶応3)年、12月9日王政復古の大号令(内容は極めて重要です。)が発せられましたが、当該政治クーデター実行派とこれに対抗した幕府体制派の間の革命戦争が所謂、戊辰戦争なのです。


(息子莞爾に戊辰戦争への参戦を命じた書状。「中瑞雲斎関係書簡集」から)


 1868(明治元)年1月3日中瑞雲斎は長男莞爾に宛てて、中家をあげて官軍に参加するようにと書き送っています。実際には莞爾(長男)は従軍せず、次男克己以下、鼎、健の三人の息子が従軍したらしいです。

「中瑞雲斎関係書簡集」から

 瑞雲斎の息子達は、東山道鎮撫使岩倉具定の配下で先鋒隊に属したらしく、詳しい事情は分かりませんが、莞爾に宛てた手紙では東海道鎮撫使橋本少将、柳原侍従のもとへ従軍するようにと知らせていますが、実際には先鋒隊に属し、その中でも集義隊に属していたようです。


 戊辰戦争において、彼らが参加した軍隊は草莽諸隊といわれ、浪士や郷士、豪農らが自主的に兵士を募り、武術の訓練を行って組織した小規模軍隊のことで、これら諸隊は尊王攘夷を掲げて官軍の末端組織として活動したらしいのです。(つづく)


(12/25追加①)
 さて、これらの諸隊の多くは後に新政府とは立場を異にするようになり、様々な事件を起こして、偽勅・偽官軍という罪状で処罰されていきます。
 明治元年(慶応4年、1868)3月に戊辰戦争の途上で起きた赤報隊という草莽隊が偽官軍とされて処刑された事件は有名です。(赤報隊処刑はここからも。


 明治元年(慶応4年、1868)の2月にはパークス襲撃事件、翌2年(1869)1月には横井小楠が暗殺され、同9月には大村益次郎襲撃(11月に死亡)と続きますが、これらの事件には草莽諸隊の隊員や関係者であった人々が関係しています。


 彼らは新政府が外国との交際をやめるか、優位な立場の確立に動くよう期待したのですが、実際には攘夷は行われませんでした。
 英国公使パークスを襲撃したのは天皇が外国人と謁見すれば神聖な天皇が汚され、国体も成り立たないというのが彼らの主張でした。また、横井小楠の暗殺や大村益次郎の襲撃も同様の考え方の上に立って、西洋化政策に対する反発が開明派官僚であった人達の暗殺に向かわせたのでした。
 そして何よりもこれらの事件は、新政府の政策に対する不満が事件として現れたものといえます。
(つづく)


(12/25追加②
 瑞雲斎はこれらの事件のなかで、横井小楠暗殺事件への関与で捕縛され、明治4年(1868)の二卿事件(外山光輔卿事件)にも連座したらしいのです。息子たちの中で鼎(三男)・健(四男)も外山事件に連座したことにより、結果として瑞雲斎と鼎は終身禁獄とされ、健は禁獄10年を課されるはずでしたが、取調べ中に病死(明治四年八月十二日)。瑞雲斎も明治四年十二月三日に病死し、克己(次男)は父、弟の計画を知りながら止めなかった罪で禁獄一年であったが明治五年四月二日に死亡したのです。


 なお、大阪府全誌第五巻(井上正雄)の記述によれば、「父子四人とも幽因の身となり、謙一郎(鼎、筆者)を除くの外は命を獄中に頻するに至る。」「父子三人は獄中に死して、多年国事に奔走したる雄志も水泡に帰したりしが、明治22年2月11日の憲法発布と共に発し給ひし大恩赦に依りて、罪科消滅したるは喜ぶべし。」とあります。また、「謙一郎は赦免後・・・河内誉田神社の社司となり・・・」と記されています。



(12/25追加③


    「中瑞雲斎関係書簡集」熊取町教委

 さて、中瑞雲斎と息子達のたたかいは、結果として大変不幸なものとなってしまったのですが、本小文の参考にさせていただいている「中瑞雲斎関係書簡集」の巻頭には桑原恵先生の「解題(かいだい)」(書物や作品の著者、内容、意義、出版年月、体裁などに関する説明のこと)が搭載されています。


 解題の七には、「この事件(横井小楠暗殺事件、筆者)に象徴的に示されているように、この時期の政府は、様々な主義の人々を含み込んで構成されていた。横井小楠暗殺を支持する人々も政府内に存在していたのである。・・・・は横井小楠暗殺を正義であるとしている。このように政府高官の暗殺という行為にも正義が認められるという議論が起こるほど、当時の政府の支持基盤は広範囲に及んでいた。」
 「しかし、政府の中心勢力は必ずしも分裂していたわけではなく、政府の組織の整備と共に一つの方向に向けて進んでいった。それは文明開化という言葉であまりにも有名な方向である。」と記されています。


 つまり、瑞雲斎が横井小楠暗殺事件に関与した最初頃の政府は、それほど厳しく関与者に対応することではなかったのですが、その後、短期間のうちに「文明開化」が進み、このような事件への対応が厳罰主義に固められていったということだろうと思います。その意味でも瑞雲斎は不幸であったと言えるでしょう。
(つづく)


(12/25追加④
 今回の小文を書くについて、勉強させられることが多いのですが、特に私が書いていて感じたこと、考えたことを記して本小文を終わりたいと思います。
 それは、瑞雲斎が京都に出て活動した時代の真の分岐点は何か、何時かという点です。桑原恵先生の解題では、「この時期の政府は、様々な主義の人々を含み込んで構成されていた」と記されているのですが、これを急速に文明開化の方向にシフトさせたものは何だったのでしょうか?


 私が考えるに、それは新政府の発足に際して明治元年(慶応4年)3月14日に示された五箇条の御誓文です。(ここからも。
 一番目は「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」ですが、五番目にちゃんと「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ」(知識を世界に求め、天皇による統治の基礎を奮い起こすべきである)とされています。
 これによって、開明派の路線は新生日本の基本路線になったのです。


 もう一つ考えたことは、瑞雲斎が京都に出て活動した時代と、私たちが現在(2025)遭遇している時代が非常に似かよってきているということです。これについては誤解があったらいけませんから、また何かの機会に言葉で説明いたします。
(おわり)


(12/28追加①
※読者から連絡、質問があって、「12/25追加④」記事のなかの「時代の真の分岐点は何か」という意味が分かりにくいとのご指摘がありました。分かって頂けると思って書いたのですが言葉足らずだったかも知れません。
 それは、「尊王(天皇を尊重し)攘夷(外国勢力を追い払う)」という旗(結集軸)のもとに結集したのだけれど、一部の人が知らぬ間に「開明(外国と交通し盛んにする)」に変わってしまっていた、その変わった「点標」、いわばベンチマークという意味で書きました。


(12/28追加②
  そして、最後に紹介しておきたいのは、やはり吉田松蔭です。松蔭は森田節斎とともに嘉永六年(1853年)に中左近家に滞在したことを最初に書きましたが、

(下村欣司先生の「吉田松蔭の泉南遊歴」と、井田寿邦先生の「吉田松蔭の歴史観・時代観」の二篇で構成されています。)

 その後、書簡を交換したりしていたという事績は今のところ発見されていません。歴史に「イフ」はないのですが、もしも更に交流し、影響し合っていたらどうなったかということを考えてみたいと思うのです。井田寿邦先生の「吉田松蔭の歴史観・時代観」の中にその答えはあります。


 31P〜、「時代を作る」での先生の記述を見てください。その一部を紹介します。『すなわち「善く国を保つものは徒(ただ)に其の有る所を失うことなきのみならづ、亦其の無き所を増すことあり」として、次のように主張する。

 今急に武備を修め、艦略(ほ)ぼ具はり砲(ほう)略ぼ足らば、即ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加模察加(カムサツカ)・奥都加(オコツク)を奪い、琉球に諭し、朝観(きん)会同すること内諸侯と比(ひと)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(い)れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋(ルソン)の諸島を収め、漸(ぜん)に新種の勢いを示すべし。然る後に民を愛し士を養い、慎みて辺圉(へんぎょ)を守らば、則ち善く国を保つと謂うべし。然らずして群夷争聚(そうしゅう)のなかに坐し、能く足を挙げ手を揺(うごか)すことなく、而も国の替(おとろ)へざるもの、其れ幾(いくば)くなるか。

 すなわち軍備増強して、艦隊・大砲を備え、蝦夷からカムチャッカ・オホーツク、琉球・朝鮮、満州・台湾・フィリピンへと「進取の勢」を示すことが重要であり、その上で辺境を守れば国を保つことができる、とする。それがなくては諸国が争い集まる渦中にいて衰えない国は幾つもない、必ず衰えてしまう。というのが松蔭の強烈な思いなのであろう。

 ここには序文に言っている「吾が邦を眷祐(けんゆう)(助ける)」する「皇天(天の神)」が具体的に何かをなす、という信仰めいたことは言ってはおらず、したがって松蔭は「皇国」の滅亡もありえると考えたのであろう。・・・・・・』


 これは松蔭「幽因録」の記述をたどることによって、先生が松蔭の「時代を作る」思想を紹介してくれているものですが、これによって私達が驚愕するのは、松蔭の幕末思想は、そのままそれを受け継いだ弟子達による維新から敗戦(1945)に至る、日本近代史前半の「大日本帝国」が歩んだ道そのものなのです。
 そしてもう一つ驚くのは、そこには瑞雲斎の「観念論」はなく、帝国主義の時代を見据えた、いわば「唯物論」的な科学性をも見るのです。

 その意味で「尊王開明」こそ「尊王攘夷」の道だったのかもしれません。

(本当におわり)


(2026/1/9追加
 読んでいただいた読者の方から、12/25追加④記事で、もう一つ考えたことは、瑞雲斎が京都に出て活動した時代と、私たちが現在(2025)遭遇している時代が非常に似かよってきているということです。これについては誤解があったらいけませんから、また何かの機会に言葉で説明いたします。」としたことに「誤解を恐れず書きなさい」とご指導をいただきました。
 この件については、筆者の感じた事柄ですので、清左の残日ブログの方で書かせていただきました。よろしかったら引き続きお読みください。